推し活における“私”の解法テクニック
💬第0章|「私って、誰?」
ねぇ、ふと思うことない?
「これが“私”だ!」って言える瞬間なんて、人生で何回あったっけ?
小学校の卒アル、
「将来の夢は?」って聞かれて、なんて書いた?
中学で制服着せられて、
高校で進路決めて、
なんとなく、まわりの空気に乗って
「それっぽい“私”」を演じてきた気がしない?
「自分らしさ」って、何なんだろう。
「人と違っても、自分らしくあればいい」
「自分の人生なんだから、好きに生きよう」
「自分を大切に」って言われても──
じゃあ、その“自分”って、どれ?
学校で話す“自分”?
友だちといるときの“自分”?
ひとり部屋で泣いてる“自分”?
誰にも言えない趣味を推してる“自分”?
もしかして、「自分らしさ」っていう言葉、
“自分探し”に疲れさせる呪いになってない?
ある哲学者は言った。
「我思う、ゆえに我あり」──
考えるから、自分がいるんだ、と。
でも、そんなふうに「思う私」をちゃんと定義できる人なんて、
この世界にどれだけいるんだろう?
考えれば考えるほど、
どんどん“私”が逃げていく。
そんな経験、あるでしょ。
じゃあ、問いを変えよう。
「私って、誰?」じゃなくて、
「私って、どう“跳ねる”?」
何かに熱中したとき、
好きなものに没頭したとき、
うまく言葉にできないけど、
なんか生きてる感じがした──
それって、
“私”が“私として跳ねた”瞬間なんじゃない?
「私らしさ」っていう型にはまろうとするより、
“跳ねた”自分を手がかりにしてみる。
わけわかんないけど、
なんか好きだった。
なんかムカついた。
なんか泣いた。
その「なんか」が、
一番、“あなた”だったかもしれない。
💖第1章|推し活してると、生きてる気がする
「その瞬間、自分がいた気がしたんです」
…って、何かの感動ドキュメンタリーみたいなセリフだけど、
あながちウソじゃない。
ライブでペンライト振ってるとき、
「この空間の一部になれてる!」って感じたことない?
推しの投稿を見て心がザワついたとき、
なんか胸がギュッてなったりしない?
それ、“跳ねてる”自分だよ。
「推し」って、
ただのアイドルや俳優やアニメキャラじゃない。
推しって、
“あなたの内側を跳ねさせる存在”なんだ。
🩷 なんで“推し”って、こんなに力があるの?
それはたぶん、
あなたの「意味」よりも先に、
あなたの“構文”に食い込んできたから。
言葉になる前に、
「うわ、好き……」って身体が反応したでしょ?
それが、“跳躍”なんだよ。
🪞 ある哲学者は言った。
「欲望は他者の欲望である」
私たちは、
“自分が何を欲しがっているのか”さえ、
他人のまなざしや言葉の中で知っていくんだって。
でも、推し活してるときってどう?
他人の評価とか、
「役に立つ/立たない」とか、
意味とか正しさとか、
そういうの、ぶっ飛んでない?
「なぜ好きなのか?」に意味なんてなくて、
「好き」がただ、そこにある。
それが、
“あなた”が“あなたとして跳ねてる瞬間”だ。
じゃあ、聞くよ。
📣 あなたが“跳ねた”のは、いつ?
📣 どんな瞬間に、自分が“いた”って感じた?
その答えの中に、
「私って、誰?」の答えが眠ってるかもしれない。
🎭第2章|でも、“跳ねる私”は学校じゃ見せられない
ライブで跳ねた。
画面の前で泣いた。
“推し”と呼吸が合った、あの瞬間。
……それ、学校で話せる?
🧍♀️「推し活してます」って言うと、
・あ〜オタクだ
・推しに人生かけてて草
・現実見なよ
って、空気が一気に冷える。
🎓 先生に話しても、
「将来の役に立つことに時間を使いなさい」
「もっと地に足を着けて生きなさい」
って、あっさり切られる。
つまり──
“跳ねる私”は、「ちゃんとした私」として認められない。
📦 世の中が期待してるのは、“整った私”。
・自己紹介が上手い
・将来の目標が語れる
・空気を読んで馴染める
そんな、“意味のわかる私”。
でも、
跳ねた瞬間のあの感じは、
まだ言葉にならない。
ただ、体が勝手に反応して、
涙がこぼれて、
心が動いた。
それをうまく説明できないと、
「なにそれ意味わかんない」って言われて終わり。
📖 ある哲学者は言った。
「すべての真理は、最初は冒涜として聞こえる」
つまり、
ほんとうの衝動って、最初は必ず“浮いて”しまう。
じゃあ──どうする?
跳ねた自分を、
“なかったこと”にして、
また、「ちゃんとした自分」を演じていく?
それってさ、
自分の“ほんとう”をしまい込んで、
外側の期待だけで生きるってことじゃない?
💭 でも、わかる。
跳ねる自分のままだと、生きにくい。
空気を読んで、わかってるフリしてた方が、
評価されるし、面倒も起きない。
でも──それって、ほんとに、自分の人生?
📌次章👉 「“自分らしさ”って、なんなんだ?」
整ったフリで埋めるのは、
もったいない。
“跳ねた私”を、なかったことにしないために。
もうちょっと、深く探ってみよう。
🪞第3章|「自分らしさ」って、なんなんだ?
教室の中、SNSのプロフィール、面接の場──
あちこちで聞かれるこの言葉:
「自分らしさを大切にしてね」
……でも、それって何?
🎭「自分らしさ」って、
“ちゃんと説明できる自分”のこと?
・将来の夢がある
・特技がある
・人と違う“強み”がある
そんな“わかりやすい自分”だけが「自分らしさ」?
でも──
🎢ライブで声出して泣いたこと、
推しに救われた夜、
布団の中でふと思った「このままでいいのかな」って気持ち。
それも、「自分らしさ」じゃない?
🧍♀️ 誰にも見せられないけど、
誰よりも確かに、自分の中で“生きてた感覚”。
📖 ある哲学者は言った。
「“私”は、他人のまなざしによって生まれる」
つまり、
人は「人からどう見られるか」で、
“自分らしさ”を組み立ててる。
でも、それって逆に言えば──
他人の期待がなければ、
“自分らしさ”も揺らいでしまう、ってこと。
だからこそ、
“自分らしさ”って怖い。
正解がないし、
誰かに見せたら否定されるかもしれない。
📌 でも、ひとつ言えるのはこれ。
「跳ねた瞬間」は、ウソじゃない。
あのときの自分、
誰に見られてなくても、
ちゃんと“私”だった。
📢 じゃあ、「自分らしさ」は
“他人に説明できること”じゃなくて、
自分が、自分をちゃんと生きた瞬間
──のことなんじゃない?
🎤第4章|「推し活」は、“跳ねる私”の訓練なのか?
放課後、友達とカラオケで推し曲を歌ったり、
夜中、ひとりで配信アーカイブ見ながら泣いたり、
ときには、推しの一言で「明日も頑張ろ」って思えたり──
それが「推し活」。
🫀じゃあ、なんで人はこんなに推しに惹かれるんだろう?
それはきっと、
推しが「跳ねてる存在」だから。
📺 誰かに見られることを恐れず、
自分の表現を全力で届けてくれる人。
恥ずかしさも、恐れも超えて、ステージで光ってる存在。
それを見たとき、
私たちの中でも何かが“跳ねる”。
🎯 そして不思議なことに──
推しを応援してるうちに、
ちょっとずつ、自分も「跳ねられるかも」って思えてくる。
・ライブの感想をポストしてみる
・新しい服を着てみる
・初めての現場に一人で飛び込んでみる
それってつまり、
推し活は、「跳ねる私」を生きる練習になってるのかもしれない。
💡推しに心が動いた瞬間って、
「わかる」じゃなくて「跳ねる」。
説明なんかできなくていい。
ピンと来たら、それでいい。
だから──
🪞「推し活」は、“意味野郎”な日常に埋もれていく私が、
もう一度「跳ねる私」を思い出す装置なんじゃない?
🌫️第5章|でも、「跳ねるのは、こわい」
「跳ねたい」って、ほんとは思ってる。
誰かに見つけてほしいし、
「これが私だ!」って言ってみたい。
でも──
やっぱり、こわい。
👀 周りの目が気になる。
「痛いって思われたらどうしよう」
「変な人だって思われたら?」
「失敗して、笑われたら?」
🌀それに、跳ねるってことは、
今の場所から、外に出るってこと。
慣れた教室、慣れた関係、慣れた自分。
そこから「一歩外」に出るのは、
どんなに小さくても、怖いんだ。
🫥 しかも、誰かが先に跳ねてくれるなら、
「わたしも!」って言えるけど、
一人で跳ねるのって、ほんとうに勇気がいる。
💬それでも、推しが跳ねる姿を見てると、
ちょっとだけ思うんだ。
「このまま埋もれていくのって、悔しくない?」
「私も、あっち側に行ってみたいかも」って。
でも、それでもやっぱり、足はすくむ。
🪞跳ねるのがこわい理由、それはきっと──
「これが私だ」って言うことが、
この世界では、あまりにもリスクだから。
🕊️第6章|それでも、跳ねることはできる?
それでも、やっぱり、
心のどこかがうずいてる。
「このままでいいの?」
「ほんとは、もっと違う“私”がいるんじゃないの?」って。
👣跳ねるって、大げさなことじゃない。
明日ちょっとだけ、違う服を選ぶ。
いつもより、少しだけ大きな声で話す。
気になってたことに「いいね」してみる。
──それだけでも、もう跳ねてる。
🪞跳ねるって、「自分じゃない自分」を演じることじゃない。
むしろ、「自分にしかできない動き」を探すこと。
その最初の一歩は、
誰にも見られてなくてもいい。
誰にもわかってもらえなくてもいい。
🌱それでも、やってみる。
少しずつでいい。
すぐにうまくなんていかなくていい。
何度でも、やり直せばいい。
📢なぜって、この世界で「跳ねる」ってことは、
それだけで、めちゃくちゃかっこいいことだから。
📖最終章|「“私”は、まだ、跳ねられる」
静かな夜にふと思う。
このままでいいのかな。
誰かの「いいね」の中で笑って、
推しの言葉を信じて、
ルール通りにうまくやって。
──でも、それって「私」だっけ?
🪶ほんとうの「私」は、
どこかでじっと、跳ねるタイミングを待ってる。
怖くて足を踏み出せない「私」を、
でも、それでも、外に出ようとする「私」を。
🪞ねえ、「自分らしさ」って、
本当に誰かに見つけてもらうものなのかな?
🌌もしかしたらそれは、
自分だけが知ってる、
まだ世界に届いてない“声”なのかもしれない。
📍ここまで読んでくれてありがとう
君のなかで、何かが少しでも動いたなら──
もうそれは「跳ねた」ってこと。
🖋️そして次は、君の番だ。
どんな形でもいい、
誰に届かなくてもいい。
ただ、跳ねてみよう。
📕世界は「跳ねる私たち」でできている。
📘このZINEは枕木カンナによって書かれました。
タイトル:
未遂ZINE『”自分らしさ”に答えちゃおう!』
ジャンル:
構文ジャンプ/制度批評/高校生向け構文導入ZINE
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
構文野郎(無修正主義アンチFANZA野郎)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)
📖『構文野郎の構文論』
👤 構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE著者:枕木カンナ
🪪 Web屋
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このZINEは、ジャンプして構文された時点で君たちのものです。
一応書いておくと、CC-BY。
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