これから選挙に臨む高校生に向けたZINE
📮 0章|構造改革って、何のための改革?
2001年、小泉純一郎が総理大臣になった。
「自民党をぶっ壊す」「構造改革なくして成長なし」──
その言葉に、多くの人が「何かが変わるかもしれない」と思った。マスコミは連日“改革の旗手”として彼を持ち上げ、街頭演説には拍手が起きた。
実際、制度は次々と変わっていった。
- 郵政民営化
- 派遣労働の解禁
- 道路公団の民営化
- 官僚の再編成
- 抵抗勢力との劇場型選挙
制度の枠組みはめまぐるしく書き換えられていった。
でも──
私たちの生活は、どこが変わった?
地方の郵便局は消えた。
働き方は不安定になった。
自己責任が押しつけられ、若者の未来は「選べるもの」ではなく「耐えるもの」になっていった。
小泉改革は、本当に「ジャンプ」だったのか?
それとも──
構造改革という動作そのものが、ゾンビの習性だったんじゃないか?
制度を撓ませず、応答もせず、
ただジャンプの“ふり”だけを繰り返す。
それが今、制度の中で延々と再生産されているとしたら──
君が生きているこの世界は、すでにゾンビエコシステムの中にあるのかもしれない。
✍️ 1章|撓みが見えない構造改革
改革とは、本来、社会の撓みに応答する動作である。
社会にうまくいっていない部分=撓みがあり、そこに構文が撃たれ、制度が更新される。
それが本物の「ジャンプ」だった。
では──
小泉純一郎の「郵政民営化」は、何に応答したのだろうか?
旧来の郵便局には、たしかに問題があった。
親子代々の特定郵便局長制度、
財政投融資に使われる巨額の郵貯資金、
官僚主導の非効率。
けれど、それは生活者にとっての撓みだったか?
本当に撓んでいたのはそこではなかった。
都市と地方の格差。
非正規労働の増大。
医療や教育の地域偏在。
それらの「声にならない撓み」には、一度も構文が撃たれなかった。
むしろ、構造改革は「制度の中にある撓みだけを選んで整える」動作だった。
それはジャンプではない。
制度の外部には何の応答もしていない。
ゾンビは、外を見ない。
制度の外から撃たれない構文は、撓みに応答せず、
ただ、制度の中で動ける部分だけを揺らす。
そうして社会は、「変わったように見えるけど何も変わらない」状態に陥った。
構造改革とは、ゾンビの習性が制度に忍び込んだ最初のジャンプ風動作だったのかもしれない。
✍️ 2章|ジャンプ風動作の罠
制度が変わったように“見える”──
それが一番やっかいな罠だ。
郵政民営化は、見た目にはジャンプの形式を持っていた。
抵抗勢力との対立構図。
選挙での国民投票的信任。
官から民へという転換。
まるで
「問いに応答する構文が撃たれ、
それが読解され、
制度が更新された」
かのように、動作は完璧に設計されていた。
でも──
それはジャンプじゃなかった。
なぜなら、撓みがなかったからだ。
もしくは、本当の撓みには応答していなかった。
郵便局は確かに再編された。
名前が変わり、
ロゴが変わり、
会社になった。
けれど、
地方の金融インフラは痩せ細り、
雇用は不安定化し、
格差は拡大した。
「何かが変わった」という空気だけが残り、
社会の根にあった撓みは置き去りにされた。
ジャンプ風動作は、ジャンプではない。
むしろそれは、「ジャンプという構文形式だけが制度内で再利用された」動作だ。
構文が撃たれたと信じさせることで、読解されたことにしてしまう。
こうして、構文が成立しないのに制度は“動いたことにされる”。
これが、ゾンビの構文模倣だ。
ゾンビは、構文の手順だけをなぞる。
だがその動作には、撓みも、応答も、読解もない。
形式はあるが、意味がない。
制度は揺れるが、世界は更新されない。
その結果、制度の撓みは見えなくなり、深く沈んでいく。
制度を壊すのは、改革ではない。
応答なき構文が、制度に入り込んだときだ。
✍️ 3章|ゾンビにエネルギーを与える罠
ジャンプに見える動作が、かえってジャンプを殺すことがある。
郵政民営化という構造改革は、制度を大きく動かしたように見えた。
だがその動作は、
撓みに応答せず、
外部の声を受け取らず、
ただ制度の内側で形式を整えたものだった。
にもかかわらず──
その「動いた」という事実が、ゾンビにとってはエネルギーになる。
ジャンプを模倣することで、制度は「動いているように見える」。
人々は「変わった気がする」。
だから、
「これ以上の改革は必要ない」
「一度やったじゃないか」
という空気が制度にまとわりつく。
こうして、撓みが温存されたまま、応答の回路だけが閉じていく。
これがゾンビの構文的エコシステムだ。
構文は撃たれていない。撓みは残っている。
だがジャンプ「風」の動作が制度の中で繰り返されることで、制度の生命線は保たれてしまう。
そして──
その生命線の中で呼吸を続けるのが、ゾンビ政党たちだ。
彼らは構文を撃たない。
代わりに、「かつてジャンプしたことになっている動作」を繰り返す。
郵政改革。
構造改革。
選挙改革。
教育改革。
同じテンプレートを別の対象に貼り直し、ジャンプの痕跡を再演し続ける。
だがもう誰も、撓みに向き合っていない。
問いはない。
応答もない。
それでも構文の形式だけは制度内で反復されていく。
ゾンビは、生きてはいない。
だが、死んでもいない。
君がその制度の中で違和感を覚えるとしたら──
それは、読解されない構文が制度内にループしているせいかもしれない。
それが、ゾンビにエネルギーを与える罠だ。
✍️ 4章|竹中平蔵の構文──応答はあったか?
ゾンビ制度のなかに、一瞬だけ「ジャンプの気配」が立ち上がったように見えたときがあった。
それが、竹中平蔵というノードの登場だった。
彼は、経済学者として大学から登用され、明確に「制度の外」から現れた。
中央省庁の出身でもなく、党内派閥の論理にも縛られていなかった。
「税と社会保障の一体改革」
「構造的競争政策」
「グローバル市場への組み込み」
彼の打ち出す論点には、たしかに制度全体を更新するようなジャンプの気配があった。
だが──
それは構文として成立したか?
構文とは、撓みに応答し、読解されて初めてジャンプを起こす動作だ。
竹中構文は、たしかに鋭く制度へ切り込んだ。
だがそれが応答していたのは、制度外の生活者の撓みではなく、制度の自己言及的な効率化要求だった。
財政の論理。
グローバル経済との整合性。
投資家への説明可能性。
そのどれもが、「制度の中で意味を持つ撓み」だった。
つまり──
彼の構文は、制度の中から制度を整えるジャンプ未満の動作だった。
それでも彼が「ジャンプの気配」を帯びていたのは、
制度の外から来たように見えたからだ。
しかしその構文は、制度の撓みに向けられていたのではない。
読解の対象は、生活者でも、地方でも、若者でもなかった。
制度が制度を読解する構文。
自己を最適化しようとする制度の動作。
それが竹中構文の正体だった。
そして、その構文は──
制度の中に吸収された。
ゾンビのプロトコルに統合された。
ジャンプの気配があったからこそ、
それがゾンビの免罪符として使われてしまった。
「あのとき、ちゃんとジャンプしただろ?」
その言葉の裏には、構文不在の制度を延命するための物語が隠れていた。
ジャンプを“したことにする”ための構文。
それが、ゾンビ構文にとって最もありがたい栄養になる。
▶︎コラム|竹中平蔵と陰謀論
「新自由主義の権現」「日本を売り渡した売国奴」「日本没落の黒幕」──
陰謀論界隈ではすっかりお馴染みの竹中平蔵。
でも、僕が政界に登場した彼を見たときの第一印象は…、
「アカデミアの雰囲気は何とか死守したいけど、旺盛な山っ気を抑えきれないイキリ倒したおじさん」。
彼の掲げた改革の絵図はそれほど突飛でもなかったし、ましてや、日本を地獄に突き落とす悪魔の企みって感じはしなかった。
多分、ゾンビに唆されてスケベ心出した意味野郎ってだけなんだと思うな。
まあ、僕には関係ないから、それほど積極的に擁護したいわけでもないけど、今の言い掛かりに晒されている竹中おじいちゃんには、ちょっとだけ同情しちゃう。
竹中平蔵に、一言物申す!
「どんまい。」
✍️ 5章|「改革」という言葉がゾンビ化する
かつて、「改革」という言葉には熱があった。
それは、制度の撓みに応答するために放たれる構文の記号だった。
古い制度に風穴を開け、新しい形にジャンプする──
「改革」は、ジャンプの合図として機能していた。
でもいま、この言葉にはもう何の効力もない。
「改革」と言われても、誰もピンとこない。
どうせ何も変わらない。どうせまた同じ。
そんな空気だけが残り、構文の読解は止まったままになっている。
なぜか?
それは、「改革」という記号が、制度の撓みに応答しないまま繰り返されすぎたからだ。
郵政改革。
労働改革。
教育改革。
行政改革。
構文がないのに動作だけがなされ、読解の手順をすっ飛ばして「ジャンプしたことにする」プロトコルが定着してしまった。
記号が、構文のふりをする。
構文が、応答のない動作を繰り返す。
そのうち制度の中では、「改革」という言葉がただの習性になった。
撓みを感じても、もうその言葉では動かせない。
むしろ、「改革」という言葉が出てくることで、構文的には撓みが無視される合図になってしまう。
これが、記号のゾンビ化だ。
制度に通じる語が、制度を閉ざす語になる。
構文がジャンプの契機ではなく、ジャンプの封印になる。
君が「また改革か」と思ったとき、
それはもう──
構文が死んでいる証拠かもしれない。
✍️ 終章|撓みに向き合う構文を撃て
「構造改革」と呼ばれたあの一連の動作は、
制度の撓みに応答する構文ではなかった。
撓みが見えないまま、改革の形式だけが繰り返され、
ジャンプ風の動作が制度の奥深くまで染み込んでいった。
そして今──
制度は動かない。
政治は選べない。
改革はピンとこない。
それは、制度が壊れたからじゃない。
構文が死んだからだ。
応答がなければ、構文ではない。
構文が読解されなければ、ジャンプは起きない。
でも、だからこそ。
君が撓みを感じているなら、それは構文の兆しだ。
それは、まだ制度に通っていない問いだ。
誰も応答していないまま、君の中で疼いている未読解の構文だ。
撓みに向き合うのは、怖い。
なぜならそれは、制度がまだ名前を与えていない領域だから。
正しい言葉も、正しい方法も、制度の中には書かれていない。
だが、構文は制度の中にはない。
構文は、制度の外から撃たれるものだ。
君が今感じている撓みこそが、ジャンプの起点になる。
撃て。読め。疑え。
制度をいじるのではなく、制度の撓みに応答する構文を撃て。
それが読解されるとき、
制度はジャンプする。
そして、そのとき──
ゾンビは沈む。
🌀このZINEを手にした君たちへ
このZINEは、「郵政民営化」というジャンプ風動作を通して、制度がいかに構文を模倣し、撓みへの応答を拒んできたかを読み解く試みです。
構文野郎は、制度が動いた“ふり”を見逃さない。
そして、制度の中ではなく制度の外から、撓みに向けて構文を撃つ。
君がこのZINEを読みながら、「あれ? 何か変じゃね?」とピンと来たとしたら──
その瞬間こそが、世界が少しだけ更新される兆しです。
ジャンプは、投票だけじゃない。
疑問を抱くことも、言葉にすることも、笑うことも、撃つことも。
撓みが見えたら、制度の外から動作を撃て。
ゾンビは沈む。
君が構文を撃つなら、制度はまた、生きはじめる。
📚構文陰謀論ZINEシリーズ(高校生向け)
『一票をハックする悪魔のクラッカー|小選挙区比例代表制』
──選んでないのに選んでる仕組みの超絶技巧
『プレイヤーがルールを決める?|自己言及のパラドクス』
──制度を決める制度を決める制度を決める制度を決める制度を…♾️
『植民地の政府ごっこ|地方自治の本旨』
──主権とか、寝言は死んで言え?
🆕『文字化け?何それ?|マスメディアの正体』
──自己愛溢れる情弱たちの運営するメディアの悲劇
🎉 絶賛発売中!(※ただし意味は未保証)
構文が読みたい君へ。
制度の撓みを見逃すな。
🌀以下続刊。
撓みがある限り、構文は終わらない。
#構文陰謀論ZINE #高校生向け #制度ハック
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
タイトル:
構文陰謀論ZINE
『郵政民営化|ゾンビの習性としての構造改革』
ジャンル:
構文ジャンプ/制度批評/高校生向け構文導入ZINE
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE編集:枕木カンナ
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