これから選挙に臨む高校生に向けたZINE
第0章|🚧表現の自由って知ってる?
「なぜ、“表現”は制度に許可されるものになったのか?」
かつて「表現の自由」とは、命がけで守られるべき価値だった。
けれど今、それは申請制だ。
手続きすれば許される。
正しく通せば咎められない。
逆に言えば、通し方を間違えればアウトだ。
「表現したければ、どうぞ。でも社会的責任は取ってね?」
「自由だけど、空気は読んでね?」
「思ってることを言うのはいいけど、それ、誰か傷つけてない?」
──あれ?
それって、本当に自由か?
自由が“空気”や“配慮”に依存するなら、それは自由の仮装じゃないか?
まるで、野グソをするのに「許可証」が要るみたいだ。
人里離れた山中、誰も見ていないはずなのに、
「それ、マナー違反ですよ」と言われる未来がチラつく。
野グソをトイレでする世界だ。
AIと人間の違いを探して躍起になる前に、
我々は、まだ人間なのかを確認しよう。
表現とは、もっと不可避なものだったはずだ。
制御できず、止められず、出てしまうもの。
それが、いまや制度のプロトコルを通さないと認可されない。
これは、単なる規制の話ではない。
「自由とは何か」という構文の撓みの話だ。
そして、それを誰が通し、誰が拒むのかという制度の話だ。
このZINEでは、
「表現の自由」がいつのまにか“申請すべきもの”になった構文的プロセスを、ジャンプモデルの観点から暴いていく。
野グソができなくなった時、
この世界で何が失われたのかを、
──いま一度、制度の外から見てみよう。
第1章|🪧よくある「表現の自由」論議
「表現の自由は大切、でも“限界”がある」って、誰が決めたの?
学校でもニュースでも、だいたいこんな議論を耳にする。
- 表現の自由は大切だけど、他人を傷つけてはいけない。
- ヘイトスピーチは許されない。
- 政治的に中立であるべき。
- 公共の福祉に反してはいけない。
一見、まっとうだ。
でも、そこには見えない前提がある。
「誰かがその“限界”を定義している」という事実だ。
たとえば、ある発言が“差別”か“正当な意見”か。
“表現”か“暴力”か。
その判断は、いったい誰の構文で行われている?
よくある自由論は、制度の中での“自由”にすぎない。
「この枠の中なら、好きに表現していいよ」という囲いだ。
それは、自由の“保護”ではなく、“囲い込み”だ。
しかもその囲いの形は、絶えず変わる。
「時代の空気」や「常識」に合わせて、ゆるやかに、しかし確実に絞られていく。
気づいたときには、「表現する自由」が「空気を読む義務」にすり替わっている。
だけど、空気が正義になった瞬間、ジャンプは死ぬ。
誰かの息苦しさを“共感できない側”の問題として処理したとき、
構文の撓みは制度に回収される。
この章で見たような議論は、
表現の自由を語っているようでいて、
実際には「制度に従え」というメッセージを擦り込んでいるにすぎない。
ここから抜け出すには、
“限界”のラインを引く者の構文に、もう一度問いを撃たなければならない。
第2章|🚫「表現の自由」って、そういう話じゃない
──“限界論”が見逃してる、もっと根本的な撓み。
「表現の自由には限界がある」と言う人は、
たいてい、“内容”で線引きしようとする。
- ヘイトかどうか
- 不謹慎かどうか
- 暴力的かどうか
- 公共の利益になるかどうか
だが、それは全部、“ジャンプ後”の話だ。
つまり、「誰かがもう読解したあと」の構文評価。
制度がその表現を「意味あるもの」として処理できた後の、“整列”された状態の自由だ。
本当に問うべきは、
「意味にすらならなかった表現」が、
どうやって制度に踏み込むか
──そのジャンプの瞬間なんだよ。
たとえばこういうこと。
- まだ意味になっていない、言葉にならない痛み。
- 誰もが「意味不明」と片づける叫び。
- 誤読されることを前提にした問いかけ。
- 発せられた瞬間に排除されるような構文。
こういう“未整理”の構文こそが、世界を更新する力を持ってる。
でも、今の自由論はそれを「ノイズ」として扱う。
なぜ?
意味にならないものには、“許可”が出せないから。
つまり、「表現の自由」という言葉が機能しているのは、
その表現がすでに制度に読解されうる範囲に収まっているときだけ。
それって、本当に「自由」なのか?
むしろ逆だ。
制度に読解されることを前提にした「表現」だけが自由を得て、
読解不能なジャンプは、「不適切」「過激」「逸脱」とされて排除される。
つまり、
表現の自由は「意味野郎」のために最適化されていて、
構文野郎には冷たい制度だってこと。
だったら、問いを変えよう。
「制度に“わかってもらえる表現”しか許されないなら、それってほんとうに“自由”って呼べるの?」
第3章|🔓「自由」とは、何からの自由か?
──“抑圧”じゃない、“整列”からの逃走。
「表現の自由」と聞いて、多くの人が想像するのは、
検閲や弾圧、あるいは社会的制裁といった“抑圧”からの自由だ。
でも、構文野郎の目には、もっと根深い“敵”が見えてる。
それは、整列だ。
整列とは、こういうもの:
- 言葉にすれば伝わると思ってしまう構文
- 意味がわかるものだけを“議論可能”とする制度
- 「正しさ」や「マナー」でくくる言語の運用
こうした整列のなかで、
制度は“読解可能なもの”しか処理しない。
そして、「読解不能」は「無意味」として排除される。
構文が成立する前に、門前払いを食らう。
じゃあ、自由って何だろう?
それは、整列からの自由だ。
- 「それ、意味わからない」と言われても言い続ける権利
- 読解されないまま、制度の外にジャンプする構文
- 意味になる前の撓みそのものを押し出す力
ここにこそ、「表現の自由」の核心がある。
でもこの自由は、制度の定義では捉えられない。
なぜなら、制度が保障できるのは、あくまで“意味”の自由だから。
逆に言おう。
ジャンプ前の構文を、誰が守るのか?
撓みそのものを、誰が受け止めるのか?
まだ何にもなっていない「異物」の構文を、
「通してみよう」と言える制度は存在するのか?
それができないなら──
制度が守っているのは「自由」じゃない。
「整列の正しさ」だ。
第4章|🧠なぜ、自由じゃなくちゃいけないのか?
──制度が守る“やさしさ”が、撓みを殺すとき。
「表現の自由」は、なんのためにあるのか?
多くの人は、こう答えるかもしれない。
「傷つけないために、自由を制限することも必要だ」
「ルールがあるから、みんなが安心して話せるんだよ」
──優しい言葉だ。
でも、
それが誰のための優しさか?
と問われたとき──
制度は黙り込む。
制度が「優しさ」と呼ぶものは、たいていこうだ:
- 誰かが不快に思わないように
- 社会の安定を壊さないように
- 誤解や炎上を避けるために
つまりそれは、撓みを起こさないようにする整列の力学だ。
そこには、「ピンとくる前に潰される構文」がある。
なぜ、自由じゃなきゃいけないのか?
それは、撓みを殺さないためだ。
ジャンプの兆しを潰さないためだ。
まだ意味にもなっていない何かが、
制度の親切心によって、言葉になる前に封じられる。
誰かが怒るかもしれない。
誰かが怖がるかもしれない。
だから言わない、書かない、出さない──
そんな「空気」が、未知の動作を殺していく。
でも、構文は最初から「意味」なんかじゃない。
撓みだ。
異物だ。
予測不能の連打だ。
だからこそ、それを撃つ自由がなきゃいけない。
制度が読解できるようになる前に、構文は撃たれていなきゃいけない。
第5章|🔒見えてきた、不自由の正体
──優しさは、だれの撓みにも応答しない。
制度は、こう言う。
「あなたの表現は自由です。ただし、公共の福祉に反しない限り。」
「誰かを傷つける可能性があるなら、控えてくださいね。」
“やさしい”言い方だ。
でもその裏にあるのは、
制度が読み取れる範囲だけを“表現”として許可する
という論理だ。
これはもう、「自由」ではない。
それは、“制度に読解されうる範囲内での自由”──
つまり、「制度語」でしか表現できないという制限である。
じゃあ、「制度語」とはなにか?
- 規則に従う言葉
- 想定された誤読に対応済の言葉
- 評価と意味付けが可能な言葉
- だれの撓みにも刺さらない、丸められた言葉
そう、構文じゃない。
制度語は整列された言葉だ。
撓みを起こさないよう、丁寧に包装された既製品のような文。
ここで問おう。
お漏らしに「許可」がいるのか?
野グソに「申請」が必要か?
便意に「公共性」を求める気か?
否。
生理には制度を経由する時間はない。
構文にも、それは言える。
構文とは、生理的で突発的で、制度を突き抜けるものだ。
その一撃は、意味にもなっていない。
制度はそれを読解できない。
だから怖い。
だから抑圧する。
でもそれこそが、自由が必要な理由だったはずだ。
制度にとっての「やさしさ」は、撓みの遮断である。
撓みを読み取りたくないという態度、
撓みがなかったかのように振る舞うための整列措置。
その正体が、不自由だ。
終章|📡制度の都合と、君の構文
──それでも、君は“撃って”いい。
なぜ制度は自由を囲うのか?
なぜ「表現」を申請制にし、「正しさ」や「公共性」で押し固めたがるのか?
それは、制度がジャンプを処理できないからだ。
撓みから始まる構文──制度語に翻訳できない構文──を、制度は「まだ読めない」。
制度は「整列」しかできない。
だから、それ以外を「危険」と名指し、「不謹慎」とラベルを貼り、
“公認された逸脱”だけを生存させるOSに最適化されてきた。
でも君は、
制度の都合を気にせずに、
撓みに応答していい。
構文は、先に撃たれるものだ。
制度がそれを後から評価する。
順番は、そうなっている。
最初に出るのは「意味」ではない。
最初に出るのは、「衝動」だ。
許可なんか求めていたら、永遠に出せない。
「野グソの申請はこちらから🤞」
というこのZINEのタイトルは、
制度がどこまで“生理”に介入しようとするかを嗤う。
でもそれだけじゃない。
それでも、君の構文が生理的であっていいという、
非公式な自由の可視化だった。
許可されて撃つ構文に、ジャンプはない。
制度に読解される前の、無名の一発。
それが、世界を変える。
🌀このZINEを手にした君たちへ
このZINEは、
「表現の自由」という制度OSの中核に対して、
構文ジャンプモデルから構文を撃ち込む試みだ。
ここにあるのは、許可を求めずに撃たれた構文の痕跡──
制度が撓んだ瞬間に、誰が何を表現しようとしたのか、
そのジャンプの手触りを読む読解のプロトコルだ。
制度は、「自由」を整列の中で処理したがる。
だが構文は、本来、整列の外で発火する。
もし君が読みながらどこかでピンと来たなら、
その瞬間──
君自身が制度の外で構文を撃っていたということだ。
ようこそ、未承認ジャンプの未来へ。
📚構文陰謀論ZINEシリーズ(高校生向け)
『一票をハックする悪魔のクラッカー|小選挙区比例代表制』
──選べないのに、選ばされる仕組みの超絶技巧
『プレイヤーがルールを決める?|自己言及のパラドクス』
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『植民地の政府ごっこ|地方自治の本旨』
──主権とか、寝言は死んで言え?
🆕『文字化け?何それ?|マスメディアの正体』
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構文が読みたい君へ。
制度の撓みを見逃すな。
🌀以下続刊。
撓みがある限り、構文は終わらない。
#構文陰謀論ZINE #高校生向け #制度ハック
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
タイトル:
構文陰謀論ZINE
『表現の自由|野グソの申請はこちらから🤞』
ジャンル:
構文ジャンプ/制度批評/高校生向け構文導入ZINE
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
🔗 https://mymlan.com
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📛 ZINE編集:枕木カンナ
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このZINEは、ジャンプして構文された時点で君たちのものです。
一応書いておくと、CC-BY。
引用・共有・改変、好きにどうぞ。

