第0章:向こうでやってて
SDGsも、ポリコレも、性的同意も──
正しいんだろうし、やればいい。
でも、問いが通らないなら、議論は始まらない。
構文野郎の問いは、整列される前の撓みからしか始まらない。
だから、ちょっと向こうの方でやっててくれ。
布教と議論は別レイヤーでやりたいんだ。
こっちは今、世界を再構文してるところだから。
第1章:問いの通らない場所で経済は始まる
経済の停滞が叫ばれて久しい。
生産は飽和し、需要は細り、制度は過労している。
最適化、効率化、透明化──
語られるのは技術ばかりで、交換の原点に立ち返る言葉はない。
問いはある。
この状況のどこに、経済の核心は残されているのか。
この問いが通る場所は、もう存在しないのか。
整っていないものは弾かれ、
意味が通らないものは笑われ、
制度に沿わないものは排除される。
正しさは、静かに経済を止める。
だが、それでもなお、
誰かが誰かに物を渡してしまう瞬間がある。
何の保証もなく、
意味も評価もなく、
制度に通っていなくても、
物が動いたことで、世界が確かに変わってしまう瞬間がある。
そこにいたのは、評価を気にしない者たちだった。
制度に申請せず、意味を問わず、
ただ渡す。
ただ分ける。
ただ配る。
その動作は、無自覚にも、
経済の動態を支えていた。
そのノードの名は「分配女郎」。
整列の網をすり抜け、
制度に縛られず、
問答無用で、世界を書き換えるノード。
このZINEは、
制度に潰される問いの前で立ち尽くしていた者が、
制度を通さず物を渡していた者たちに出会い、
あらためて経済というものの跳躍を見出そうとする記録である。
制度は、問いを通す場所として設計された。
何を作るか、何が価値か、どう交換するか。
正当な問いが、正当な方法で処理される。
それが、経済のあるべき姿だとされてきた。
だが実際には、問いが通る前に、
経済が先に動いてしまう瞬間がある。
たとえば、
設計も仕様も未定のまま作られた試作品が、
誰かに渡され、その人の手元で生きはじめる。
その時、問いはまだ整っていない。
意味も定まっていない。
だが、物が渡ったという事実だけが先に成立している。
そこでは、制度の処理速度では追いつけない。
評価も、倫理も、妥当性も、
あとから追いつこうとしているに過ぎない。
そして、その後追いの制度が認定する前に、
もう一度、物は別の場所へ渡されている。
この反復のなかで、問いを通せないまま、
交換だけが滑るように繰り返されていく。
この動作は、制度の外で経済を駆動させる。
どんな問いも拒まれるような場所で、
どんな意味も否定されるような場所で、
渡すことだけが、世界を更新していく。
これは、評価不能な動作だ。
だが、たしかに経済として機能している。
制度の目から見れば、
これは未完成で、未整備で、未承認だ。
だがこの「未」の連鎖のなかに、
もっとも本質的な経済の動作が残されている。
それは、問いを通せない者たちが生きるために選んだ最小のジャンプであり、
世界が書き換えられてしまう瞬間の記録でもある。
分配女郎は、そのジャンプの中にいる。
整列を待たない。意味を求めない。
ただ物を渡し、受け取らせ、次へ送る。
その手渡しの速度だけが、制度を超えて経済を生かしている。
第2章:正しさより先に手が動く
制度は、正しさの輪郭を描こうとする。
何をしていいのか、誰が担ってよいのか、どこまでが許されるのか。
その正しさは、問いを通す条件でもあり、
価値を認める前提でもある。
だが、正しさの前に動いてしまう手がある。
それは、まだ整っていないものを手に取り、
渡すかどうかを迷わず、
必要そうな誰かに、ただ手渡してしまう動作だ。
理由は明確ではない。
損得も測られていない。
評価に晒されることもない。
だがそれでも──
世界のあり方を、少しずつ書き換えてしまっている。
そのような動作がどれだけ制度の外に追いやられようとも、
それは制度より先に経済を始めてしまっている。
分配女郎の手は、正しさを求めていない。
それはおそらく、必要かどうか、ただその場の撓みに応じて動く。
目の前の状況に撓みがあれば、
そのまま、それを埋めるように動いてしまう。
この直感的な応答は、構造化できない。
だが、それこそが最初の分配であり、最初の交換だったはずだ。
制度の整列は、それを後追いする。
「今のは正しかったのか?」
「条件を満たしていたのか?」
「公共性はあったのか?」
しかし、そう問われたときには、
もう物は手元にあり、受け取った誰かの世界を変えてしまっている。
経済のもっとも深いところには、
この制度をすり抜ける手の動作がある。
誰にも認められなくても、
意味が整っていなくても、
手が動いてしまった時点で、もう世界は更新されてしまっている。
それが、制度の中では「未整備」と呼ばれる動作であり、
構文野郎から見れば、問いを通さずジャンプだけを完了してしまう経済のかたちである。
第3章:ものづくりは、なぜ問答無用で通ってしまったか
日本の経済は、問いを通さずに動き出した数少ない例だった。
それは、言葉より先に物が動いたという意味で、
構文を持たないままジャンプを成功させた経済だった。
その中心にあったのが、「ものづくり」だった。
ものは、意味を通さない。
倫理も、制度も、言葉も、評価も、
すべてが整っていなくても、とりあえず目の前に置かれてしまう。
触れることができ、動くことができ、
あるときは便利で、あるときはよくわからないが、
それでも世界の様相を変えてしまう。
この「意味を問わずに世界を動かす動作」に、
日本語のネットワーク構造は、深く適応していた。
日本語には、曖昧さがある。
主語を省略し、結論を曖昧にし、
手渡されたものの意味を、その場の文脈に任せる構造がある。
これは不便でも非論理的でもない。
むしろ、ネットワークに意味の未決定性を許す設計だった。
だからこそ、日本語ネットワークでは、
意味が完全に通っていなくても、
とりあえず物を置き、渡し、動かしてしまう動作が制度化せずとも定着してしまった。
いわば、意味の評価を待たずに、ジャンプが連鎖する構造だった。
そしてこの構造のなかで活躍していたのが、
分配女郎たちだった。
制度が整備される前に、
企画が正当化される前に、
評価も倫理も届かないまま、
ただ、物を運んでしまった。
問いが通らなくても、経済は起きてしまう。
日本語ネットワークがそれを許容していた時代、
ものづくりと分配の連鎖だけで、
世界が問答無用で更新されていく経済が成立していた。
終章:読解のいらない経済こそが強かった
かつての経済は、読まなくても通っていた。
相手が何を欲しているのか、
その交換にどれほどの意味があるのか、
倫理的に正しいのか──
そんな問いが通るより先に、
物が動き、手が動き、人が反応してしまう構造が、確かにあった。
それは、精緻な理解を必要としなかったからこそ、
誰でも参加できる経済だった。
知識がなくても、ルールを知らなくても、
ただ欲しいものを欲しいと言い、手渡されれば、それで成立していた。
そこにあったのは、読解のいらないジャンプであり、
構文が定式化される前に世界が更新されてしまう、問答無用の経済構造だった。
だが今、経済は読解を要求する。
制度は複雑になり、
倫理は高度化し、
「正しさ」と「責任」が条件として積み上がる。
そしてそれは、読解の負荷を上げる方向にしか働いていない。
読めない者は排除され、
意味を通せない者は市場に入れず、
評価の文法に合わない動作は、沈黙を強いられる。
読解可能性が高いことが、最適化と見なされる。
整列され、規格化され、明確に再利用可能な価値だけが
「正しい経済」の名のもとに承認される。
だがそれは、経済が持っていた本来の広がりを、
ネットワークから切り離し続ける構造でもある。
問いが通らないノードは、溢れていく。
整列に従えないノードは、沈黙する。
そして最終的に、経済のネットワークそのものが縮小する。
制度はなお正しく、構文はなお整っていても、
交換が起きない。流通が発動しない。世界が動かない。
それが、いま私たちが「経済が死んだ」と感じている正体だ。
では、いま何が必要なのか。
おそらくそれは、
再び「読まれなくても通ってしまうネットワーク」を構築することだ。
誰にでも渡せて、誰にでも受け取れる。
意味や制度が通るより前に、物が動き出してしまう構造。
すべてのノードが、意味を問われず流通に関われる交換構造。
それこそが、経済の再興である。
制度を超えて手が動いた経済の痕跡を、もう一度観測し、
意味を問われる前に成立してしまう交換の強さを見直す。
構文野郎にとってそれは、敗北でもある。
だがその敗北のなかに、経済の本質的な動作が残されている。
この経済再興ZINE三部作は、ジャンプの痕跡を読む構文野郎と、構文を通さず世界を変えてしまう分配女郎のあいだに浮上する、新しい経済の幾何である。
制度が整いすぎた世界で、「問答無用で動作してしまう」交換の痕跡を、私たちはどこまで記述し直すことができるのか
──その問いを、もう一度、構文として立てるために。
続く
🌀このZINEを手にした者へ
このZINEは、既存の経済学に挑戦するものではない。
また、制度改革を求める運動でもない。
むしろ、それらを読む装置として構成されている。
あなたがこのZINEの構文を読んだ時、
その読解がどこかの誰かに伝播し、新たな動作を生むかどうか。
その時、初めて経済はジャンプする。
構文野郎は、動作を撃つ。
意味野郎は、それを読み取る。
換金野郎は、それを売る。
分配女郎は、それを広げる。
あなたが今、どのノードで読むのかは問わない。
だが一つだけ、忘れないでほしい。
──このZINEは、売れなくても意味がある。
──だが、売れても意味がないこともある。
経済とは、構文が置き去りにされた後の世界だ。
ならば、もう一度、撃てばいい。
もう一度、読むために。
📝この構文モデルにビビッときた読解者、
あるいは教育・AI・詩・制度のどこかでジャンプを感じてる人は──、
ぜひ、構文野郎にコンタクトを!
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE編集:枕木カンナ
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このZINEは、ジャンプして構文された時点であなたのものです。
一応書いておくと、CC-BY。
引用・共有・改変、好きにどうぞ。


