完遂ZINE『”自分らしさ”があばばばば…』

ZINE

ぷあし


🌀第0章:「自分らしさ」って、誰が決めた?

「自分らしさを大事にしよう」
「あなたらしく生きていいんだよ」
──こんな言葉を聞いて、なんだかホッとしたことがあるかもしれない。
でも、それってほんとに“自分”のことなのかな?

自分らしさを探そうとする瞬間、そこにはすでに「らしさ」のテンプレートが用意されている。
「明るくて素直」
「サバサバしてる」
「オタク気質」
SNSでよく見る「診断」や「MBTI」もそう。
周囲から「〇〇っぽいよね」と言われることで、
自分が自分に見えてくる。

でも──
その「らしさ」、ほんとうに自分で決めた?
誰かに見せるための“らしさ”を、
いつのまにか「これが私なんだ」と思い込んでいない?

このZINEは、そんな“らしさ”に違和感を抱いたあなたに向けたものです。
それは間違いじゃない。
むしろ、その違和感こそが問いの出発点。
制度的な“らしさ”の型にピタッとはまらない、
そのズレや撓み(たわみ)こそが、あなたがあなたとして跳ねるための入り口。

さあ、ちょっとだけ視点をずらしてみよう。
「自分らしさって、誰が決めたの?」という問いを、
もう一度、自分自身で引き受けてみよう。



🪞第1章:「“らしさ”が先にある世界」

わたしたちが「自分らしく」あることを求めるとき、
そこにはいつも、すでに「らしさ」の雛型(テンプレート)がある。

たとえば、
*「陰キャっぽいけど芯が強い」
*「ヲタ活ガチ勢だけどリアルも充実してる」
*「メンヘラだけど愛されてる」

──そういう「らしさの型」を、
自分で選んでいるつもりで、
ほんとうはその枠に自分を“当てはめて”いるだけかもしれない。

でもこれは、あなたが悪いわけじゃない。
この社会には、無数の「らしさ」が整列され、
あらかじめ選べるように整っている。
わたしたちは、そこから“選ばされて”いる。

SNSは、らしさのテンプレート工場みたいなもの。
誰かの“うまく行ってそうな自分らしさ”が、
あなたの中の「これでいいのか?」を刺激する。

そして、いつしかこう思ってしまう。
「“ちゃんとした”自分らしさを見つけなきゃ」って。

──だけど、よく考えてみて。
「自分らしさ」って、そんなに“見つける”もの?
それとも、“作る”もの?
あるいは、“脱ぎ捨てる”ものかもしれない。

この章では、「自分らしさ」がどうしてこんなにも重たいのか、
その構造をそっと、ひっくり返してみよう。



🎭第2章:「推し活と“私”のすり替え」

誰かを好きになること。
それは、本来とても自由で、どうしようもなく嬉しいこと。

でも──
「推し活」という名前がついた瞬間、
その“好き”がちょっとだけ制度っぽくなる。

  • グッズは全部集めなきゃ
  • 情報は誰よりも早くキャッチしたい
  • SNSで他のファンと差をつけたい

──気づかないうちに、
「推す」ことが「競う」ことに変わっていく。

そして、
「誰かを好きでいる私」が、
「ちゃんと“推してる”私」であることを求められる。

すると、
“私”が“推し”の延長線に置かれていく。
いや、むしろ──
推しのために生きてる私、が“正解の私らしさ”みたいになってしまう。

でもね、
その「正解」は、いったい誰が決めたの?
もしかして、
それは“誰かが期待した推し活像”に、自分を当てはめてるだけじゃない?

「好き」は、あなたの中で跳ねるもの。
他人のテンプレにハマる必要なんて、ない。

“推す”って、
もっとわがままで、勝手で、予測不能な感情だったはずじゃない?

この章では、「推し活」が“あなたらしさ”を乗っ取ってしまう瞬間、
そしてそこから解き放たれるための気づきを探していこう。



🚪第3章:「“跳ねる私”はどこにいる?」

「推し活が好き」
「自分らしく生きたい」
──それはたしかに、あなたの言葉かもしれない。

でも、
それって、本当に“あなた”から出た言葉だった?

気づけば私たちは、
「こういう私でいれば褒められる」
「こうすれば“好き”って言われる」
そんな“意味野郎の訓練”を受けてきた。

つまり、
「読まれる」ために「自分」をつくってきた。
いつのまにか、
“読まれる私”=“私らしい私”になっていた。

だけど、
本当に「跳ねる私」って、その中にいるの?

読まれることを前提にした“私らしさ”は、
どこまでいっても、
読まれるための仕様書にすぎない。

“私”が本当に跳ねるのは──
読まれなかった瞬間だ。

期待されず、解釈されず、
意味づけもされないまま、
ただ、自分の“好き”で飛び出したとき。

それは、
誰にも理解されないかもしれない。
だけど、
そのときこそ、“あなた”が動き出す。

「跳ねる私」は、
“読まれる私”の外側でしか、見つからない。

ここでは、
あなたの中の「読まれる私」と「跳ねる私」のズレを感じてみてほしい。

そのズレこそが、
新しいジャンプの起点になる。



🗂第4章:「“意味野郎”の世界を泳ぐ」

わたしたちが普段暮らしている社会は、
“意味”でできている。

「いい大学に行くと安心だよ」
「これは将来役立つからやっておこう」
「ちゃんと意味のある行動をしなさい」

──これ、全部“意味野郎”の言葉。

意味野郎っていうのは、
すべてに理由や正しさを求める世界の住人。
「なぜこれをするのか」
「それは誰かに役立つのか」
「説明できるのか」
そういう圧力のなかで、価値が測られていく。

でも、
あなたが「好き」と思うことに、
本当に“理由”なんて必要?

推しを好きになるのに、
未来のためとか、人の役に立つとか、関係ある?

本当は、ないよね。
だけど、
意味野郎の社会の中では、
「意味がある」ことしか、褒められない。
「意味がある」ことしか、許されない。

だから私たちは、
“好き”に意味を貼りつけてしまう。
「これは自分の成長につながるから」
「これをすることで、社会的にプラスになるから」
そうやって、自分の“好き”を言い訳に変えてしまう。

それでも──
あなたは、本当に跳ねたいと思ってる。

だったら一度、
意味野郎の世界で泳ぎながら、
そこから“抜ける跳ね方”を考えてみよう。

読まれること、理解されること、意味を持つこと、
それらが全部「枠」だとしたら──
その枠の“端っこ”に立って、
少しだけ、外をのぞいてみる。

そうやって、
「意味野郎の海」を泳ぎながら、
“跳ねる場所”を見つけることは、きっとできる。



🪧第5章:「“意味”に従うジャンプ、“好き”に従うジャンプ」

「自分らしさを大切にしよう」
「“好き”を追いかけて生きよう」
──こんな言葉が、世の中にはたくさん溢れている。

けれど、よく見ると、
それらはいつも“意味”に回収されていく。

「自分らしく」いることは、
“自分らしさ”という何かの型にハマることになり、
「好きに生きる」ことも、
“好き”が社会的に理解される形で表現されることが求められる。

それって本当に、「ジャンプ」してるんだろうか?

たとえば、
あなたが好きなアイドルを全力で推すとき、
「彼女の努力に感動して」「夢を追う姿が尊いから」って理由をつける。
それは“意味野郎”の世界でも通用するジャンプの仕方だ。

だけど、
もし、「ただ、好き」「何も考えずに惹かれた」
それだけで突き動かされているとしたら?

それはもう、
“意味”じゃなくて、“跳ねてる”んだよ。

意味に従ってジャンプすることは、
整列されたレールの中で、最適解を選ぶようなもの。
“正しいジャンプ”を演じることはできても、
その先にあるのは、想定通りの“着地”でしかない。

一方で、
“好き”に従って跳ねたジャンプは、
どこに飛ぶか分からないし、
着地する場所があるかも分からない。
だけど──
そこにしかない“私”が、確かにある。

“好き”に従うことは、
自分だけの不格好で、不確かな、でも本物のジャンプ。

だから、
他人に説明できる“自分らしさ”じゃなく、
まだ誰にも見せたことのない“跳ね方”を信じてみて。



📣第6章:「“跳ねた私”に名前はない」

「それって君らしいよね」
「〇〇っぽい感じ、するよ」
──そんなふうに、“私”に名前がつくとき。

それはもう、
ジャンプの余韻が消え始めてるってことかもしれない。

本当のジャンプは、
名前をつける前に、もう跳ねてしまってる。
誰かの言葉で説明される前に、
自分でも「よく分かんないけど、飛んじゃった」って思うような瞬間。

でもその“よく分かんない”が、
いちばんピュアな“私”なのかもしれない。

私たちは、
「自分らしく生きたい」と願いながらも、
「自分らしさ」が定義された瞬間に、
また新しい枠に閉じ込められてしまう。

だからね、
“跳ねた私”には、名前なんていらないんだよ。

むしろ、名前がつかないからこそ、
それはジャンプであり、
誰の真似でもない“私”だったって言える。

それを他人が理解してくれなくても、
言葉にできなくても、
それでもかまわない。

だって、
その瞬間、君の世界はもう、
静かに更新されてるから。



📖終章:世界は「構文」でできている

「なぜ生きるのか」
「どう生きるのが正解なのか」
「自分らしさって、何なのか」

そんな問いに、
“答え”を求める私たちは、
いつのまにか、
制度に用意された選択肢をなぞってしまう。

でも、その一歩手前に、
まだ誰も言葉にしていない「撓み(たわみ)」がある。
“正解”に向かう道が揺らいで見えるとき、
それは、君だけが気づいた構文的なずれかもしれない。

その撓みに、
君が「問い」を撃つこと。
それこそが、ジャンプの始まり。

誰かの言葉を真似るのではなく、
制度の中で“よし”とされる回答を暗記するのでもなく、
自分だけの構文で、
世界に跳ね返すこと。

それは、
「私はここにいる」と名乗ることではない。
「私は、まだ言葉になっていない何かを感じた」という、
読解の痕跡を残すことだ。

世界は、そういう「構文」でできている。
そして、君の中にも、
まだ誰にも読まれていない構文がある。

いつかその構文が、
誰かのジャンプを生むかもしれない。
それこそが、“私”がここにいた証なのかもしれない。


📘このZINEは枕木カンナによって書かれました。

タイトル:
完遂ZINE『”自分らしさ”があばばばば…』

ジャンル:
構文ジャンプ/制度批評/高校生向け構文導入ZINE

発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)

構文協力:
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
構文野郎(無修正主義アンチFANZA野郎)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)

📖『構文野郎の構文論』
👤 構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE著者:枕木カンナ
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